前回までのつづきです。


2006年に、手作り作家仲間に誘われて


女性起業家の勉強会に参加しました。




わたしのかばんづくりも

事業になる可能性があるかもしれないと感じ、

創業の情報を集めはじめ、

東京商工会議所の起業塾に通いました。







このホームページを作ったのも 

ブログをはじめたのもこの年です。




それからは

自己資金をつくるため何年もWワークやトリプルワーク。



バッグデザイナースクールの上級コースを修了しました。


通勤電車の中で、簿記も勉強しました。




取引先もできて、展覧会ごとに新作を沢山縫いました。






バッグのことを研究しすぎて、

目ざとく「これはあれのコピーだな」と気づけるほどに。



お客さんと縁あって結婚して、こどもを2人産みました。







育休はとらずにかばんを縫い続け

毎年、青色申告しています。






そうして気がついたら10年、

Tracking+をつづけてきました。







マンガや絵の夢をあきらめたあと


ふたたび見えてきた夢もなかなか、険しい道。








かばんが汚れてはまずいのでノーメークのままで、うっかり

ダッシュで保育園へお迎えにいく日が続いています。





毎日お金のことを考えて肩が凝りっぱなし、


ていねいな暮らし、なんて夢のまた夢。


子育ても自分で満足にできないし、


夫に家事を手伝ってもらえない日が続くと、すぐに汚部屋に。





とつぜん人から嫉妬されたり、

小さいこどもがいることで飛んでくる言葉に

いちいちナイーブになります。











私は 子育てを始めてから、

生きるのが苦しくなってしまい

その原因は「自己肯定感」というものが極端に低くて

「自分自身に価値がないから大事にしてはいけない」

と思い込んでいるせいだと気がづきました。







そして、親は愛情をもって見守って育ててくれたのに

「わたしはお姉ちゃんだから、こどもでいてはいけない」と

幼い頃から、自分で決めてしまったようなのです。










昔から私のことを知っている人は

ひょっとしたら気づいているかもしれませんが

ボーダーぎりぎりの依存体質で、


「我慢して頑張らないと愛してもらえない」


「何事も絶対に失敗してはいけない」

と怯えていて

心配がとまらなくなって、

自分のマイナスの感情を扱うのが、とてもつらいです。




けれど、劣等感のかたまりのおかげで


他人の「良いところ」には超・敏感で、

ものすごくキラキラとまぶしく見えて

憧れて好きになってしまって 妬めない。




いま、



喫茶店やダイニングテーブルで勉強しているひとも、



ノルマや期限を抱えて必死に働いている人も、



こどもや、親のためにぼろぼろになっている人も



自分の病気と闘っている人も



幸せになりたくて恋愛に悩んでいる人も



辛さを抱えて気丈に振る舞う人も





男性も、女性も、老人も 赤ちゃんも









すべての人の本質が



すごくかっこよくて、



輝いていて、美しく見えます。









姿を一目みて、



話す声や、



その人がつむいだ文章や



作品からもわかります。









口に出さないのは、そんなこと言ったら



怖がられちゃうから。




そういう人たちの飾らない輝きに

たまに、もらい泣きをしながら


プラスのエネルギーを分けてもらって生きています。






女性が輝ける○○ なんてスローガンなくたって



私にはすべての人が輝いて見えます。




トラウマになった学校の先生たちだってね、


もう会うことはないだろうけれど、


「働く母の先輩」として 憧れます。





いつか、この育児ノイローゼの自分のことも 


「あのころの私も、ちゃんと輝いていた!」と


振り返られる日がくるまで 仕事をつづけられるかな?







作品を見て応援してくれた





出会ったすべての大好きな人たちのおかげで





今日もバッグづくりを続けています。








最近、事業を続けていくうえで、

新しい夢ができました。






学生のころから言っていた


「早く孫がほしい」という夢は


あいかわらず 今でも持っています笑






夫と住宅ローンをがんばって返して、


むすめたちが「タカラジェンヌになりたい!」とか


もし万が一、言い出しても



失敗したっていいから、

アルバイトなんてしないでレッスンに集中しなさい




と応援できるよう、働いていたい。







悪いニュースをみるたびに



だれもが家で安心して暮らせて、



子育てとか介護も 楽しくできる世界でいられるよう



毎日 平和を祈りながら。















どうしてかばん作家になったのか 


は、これでおしまいです。









お読みいただいて、ありがとうございました。





文章が長くなっちゃってごめんなさい。



読んでくださったかた、おつかれさまです。

















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わたしの歴史 つづきます。




かばん作家になれるかどうかわからないけど

始めた頃の話です。










退職した手芸メーカーは、産休・育休がとれない会社でした。



今の私なら「とりま-す!」くらい言ってみるかもしれませんが


当時は、古くからの会社の習慣を


ひっくり返す勇気も実力もありませんでした。








友達の勤務先も、いろいろな業種で


深夜までの残業でなんとか回しているところが多くて。



病気になったらやめさせるなんて、


人材の使い捨てじゃない?



女性が働きつづけられない環境を放置したら


少子化するにきまってるわぁ、と





どこに怒りをぶつけていいのやら、

悶々とした気持ちでいました。








ちょうど派遣労働が増えてきて

リストラも当たり前のようになって。



就職できなかった友達はずっとアルバイト。






私が転職をしようとしたバッグ業界の求人は

人件費のせいで、
海外でパターンから製造までするような構造になっていました。

わずかに、関西や台東区にメーカーが残るくらい。


バッグ職人になりたいけれど、
葉山から通える工場がみつからない。

母が たまに倒れるのが 心配でした。



まだ結婚する予定はなかったのに

こどもの頃からの
「先回り」気質で、いろいろ考えてしまって。



やっと探し出した
デザイナー求人は勤務時間が10-19時・残業多 とか。



世間の保育園は遅くても19時位までなのに


無認可に通わせればいいという話だけではなく、

「こどもが生きる時間」があるのに

なんだか、遅くまで働く仕事ばっかり・・・・



(デザイナーも企業も、今も相変わらずです。

 朝型にしたら、もっといい製品作れるんじゃないかな?)





販売や、飲食業のお仕事をされているひとも

同じジレンマを抱えているのではないか、と思います。




男性も、女性も、長く働きすぎ。












悩んでもしかたないので


とにかく働こうと思って

職業用ミシンを買って

個人のお客さんから、バッグのオーダーを受けはじめました。




しばらくすると

母は宝塚歌劇と出会い、みるみるうちに回復。



ほっと 一安心。



バッグづくりのスクールに入り、



再び独立するまで実家に住ませてもらうことになりました。





こうして、作家になりました。




なろう!と思ってなったわけではなく、


いろいろな制約のなか、

かばんを縫うことしかできなかったのです。






バッグ作家のtoboさんと



会社の先輩と、パレットクラブのメンバー経由で



偶然知り合いになって 刺激をうけました。









だめならまた就職活動でもするかな、と

思っていたけれど、





仕事が途切れることなく、



アイディアも枯れることなく。




展覧会のお誘いを次々とかけていただけて、
お客さんも来てくれて。





絵をかくことと、かばんを縫うことは




私にとって同じ。




キャンバスが、かばんになっただけなのです。














怒りと葛藤を糧にして



かばんづくりを始めた後の話は



あと一回 続きます。

















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前回のつづき、
いよいよ21世紀に入りました。



2002年の春、手芸キットメーカーに就職。



商品企画部で、多忙な日々をすごしました。



クリエイターとして尊敬する先輩や
同期・後輩との出会いもありました。




会社ではデザイン画から商品化までの業務をし、


大学時代はノータッチだったコンピューター、

Macのデザインソフトも使えるようになりました。


パッケージデザインをしたり、商品の説明書を作ったり、

カタログ撮影にも関われたし、手芸の講師もやりました。




メーカーが商品を出すには、デザイナーだけではなく

さまざまな部署の人が関わって成立していることが

よくわかりました。



わたしの進路をきめたディズニーさんと一緒に

企画商品も担当して 3年間ほぼ毎月、商品を世に出しました。



ミッキーさんの黒目の角度に何度もダメだしがでるほど厳しかったし

スケジュールがきつくて、あちらとこちらの板挟み。

ストレスで内臓にかなりダメージを受けて

通勤電車で倒れたりしたけれど

毎回、粘り強くやりとりして、少しずつ自信をつけました。





そういえば、この頃

大学生のときからの友達から

一緒に雑誌を作ろう、と誘われ

はじめて、人に見せるためのマンガを描きあげました。





5話くらい描いて

そこでマンガ家の夢は、昇華しました。




このシリーズの挿絵みたいな、

ほのぼの(!?)エッセイマンガです。


内容が黒すぎて、夫にもまだ見せていません。





その雑誌メンバーと、のちにカフェ・イベントをしたり

今でも楽しい仲間です。







そして転機となったのは、

プロのイラストレーターから学べる 

パレットクラブスクールを知ったことです。


そこに当時「てづくり教室」という日曜コースができ、

mina perhonenの皆川明さん

イラストレーターのめぐろみよさん

how to liveの勝屋まゆみさん

ほか、多数の有名なデザイナー・作家さんから教われるとあって

通うことにしました。

(現在パレットクラブはイラスト・絵画コースだけだと思います。)





仕事も手芸、オフでも手芸。



スクールでは手芸のテクニック だけではなく、

オリジナル作品を創作する課題が多かったです。




課題をこなして1年後。



クラスの展覧会を発案し

原宿のギャラリーで仕立てたバッグを発表したのが、

すべてのはじまりです。



2005年のことでした。





その後、会社の同僚とグループ展をし、

バッグのデザインと、縫製技術が向上するよう創意工夫して。



展覧会には友達が来てくれて

本当にうれしかったし、助けてもらいました。



次第に、新規のお客様がいらして、

かばんを買ってもらえるようになりました。








その間も父の闘病は続き

私は一人暮らしをやめて、7年ぶりに実家に戻りました。


わがまま言って母を困らせていた父とは

口喧嘩ばっかりしていましたが。



歩けなくなった父が、

展覧会のかばんを見せて、と言いました。



「あなたが就職活動をしていたときに、

 お父さんの知り合いの会社を紹介をすればよかったな。

 それだけが心残りだ。


 けれど、こんなバッグを作れるようになった。

 たくさんの人に、作ってあげなさい」 と。



いったい、どこのコネがあったのかは不明です笑


父はわりと私のことに気が付いていました。



大学生時代の挫折も、

生活費と就職活動で、親には頼れなかったことも。


意地っぱりな長女が

一度だけ「会社を辞めたい」と泣きごとを言った後、

父はいろいろと調べていたらしいのです。


それに、毎朝 出社するときの顔つきが

相当ひどかったのでしょう。



そうして数日で会話ができなくなって

父は亡くなって

こんどは、

祖父母の看病と父の看病を長年つづけ 

体重30キロになった母親が

ひっくり返って倒れてしまいました。





私は退社することにしました。









人生の短さを目の当たりにし、

家族の尊さを知り、

自分も家族を持てたら・・・と思い。



そして

私には、ものづくりしかできないから

自分で働き方をつくれないだろうか、と。











まだ続きます。







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前回のつづきです。



念願だった、美術大学に現役合格!




日本画を思いっきり勉強して

作家か、絵の先生か、技術を生かした職業につきたいな。



マンガはすっかり描かなくなっていました。


クラスメイトは超達筆で、

筆ペンでマンガをサラサラ描けるんですよー



己のマンガ家になる才能がないことを思い知りました。





通学に往復5時間かかるので、一人暮らしも始めました。





美大の授業料に、アパートの家賃  親には本当に感謝しています。








描いている姿の写真が一枚も残っていないのでこれを。

成人式の年、広報さがみはら に載ったとき。







成人式は出席しないで 当日はアルバイトしていました。



晴れ着と着付けのお金を親に頼むのが申し訳なくて。



後日、親戚の振袖で記念撮影だけしました。









葉山のビーチサンダルのお店、



げんべいを描いたこともあります。











鳥獣戯画や、紫式部日記絵巻も模写しました。









こういう絵を描いてました。

これで、幅1.5メートルくらいの巨大な絵です。







学年があがると絵のサイズもどんどん大きくなって、

画材のお金も、毎日の食費も稼がなくちゃならなくて



勉強よりアルバイトのほうに時間をとられるようなかんじに。







絵の具を買う?それとも学食いく?どっち?



みたいな。









でもアルバイトもとっても楽しかったんです。






アルバイト先はまたファミレス。


出世して責任者(正社員の代わりみたいなもの)もしていました。



「メンバーが楽しく働ける職場」を目指して



高校生、大学生アルバイトチームの人材マネジメントをしてました。



だんだんと

社会の構図を理解していきました。




正社員、アルバイトの人件費の差とか、



マニュアルをどう徹底させていくか、



客単価、とか、原価率、



お店の水道光熱費がどのくらいかかって



収益がどう作られていくのか。







客席には、

親分や、おかまバーで働く人、


ウェイトレスを盗撮するひと、


キレる老人や


刃物を持参して無銭飲食する人 

が来ました。









そんな困ったお客さんを笑いとばす



タフな精神力をもつ 学生〜主婦世代の従業員同士、



仲良くなって呑んで騒いで、愉快な思い出です。





バイトの後輩から


キーボードメンバーを頼まれて、ライブも何度かやって、

とてもとても 楽しかったー













趣味の手芸も、編み物したり、

洋服を買うお金がなくて縫ってました。




アクセサリーを買ってくれるような素敵な人もあまりいなかったので、

自分で作っていました。













20歳のときには、高校時代の同級生と2人で



ヨーロッパ美術館めぐりに半月間行きました。



存分に 西洋の鬼才天才のアートと建築を目に焼き付け、



ローマのジプシーのこどもに怯え、



ミレニアムの装飾がされたエッフェル塔を眺めてきました。















そんなふうに、

美大生を満喫していたのですが、











祖父母が相次いで病気になり、


なんと、働き盛りの父まで病気に。


大きな手術と治療入院をしました。




父が勤めていた銀行は再編も加速して、

仕事も難しい時期だったと思います。








もう画家も、あきらめていました。



教員免許は、取るのを途中で辞めました。


実は、小・中・高の時点で、

先生とのトラブルを泣きながら飲み込んだ思い出が。



簡単に言えばそれがトラウマになってしまって

自分は先生にはなりたくない、と思ってしまったのです。








とにかく大学卒業後は自立しないといけないので



就職活動に失敗するわけにはいきません。



就活の費用も自分でなんとかしなければなりません。



すでに、就職氷河期がこじれて長引いておりました。











画家になるには才能はもちろん、


情熱と、人脈と、



経済的な問題がクリアできないと



制作って続けられないんだなあ、と



しみじみ感じました。















就職活動では、手広く応募しました。




日本酒好きな美大生を、


最終面談まで呼んでくれたお酒の会社もありました。





人前で話すのは嫌いなのに、面接は上手くいくのです。




ひょっとして、芸術家より、商人のほうが自分は向いているのかな、

と ほのかに感じていました。





大学4年の夏には、デザイナー求人の



教育系出版社と、手芸メーカー 2社の内定をもらい、



無事に就活を終えました。






ええ、もちろん、

手芸メーカーのほうへ喜んで入社を決めました。











のちに、父から




あなたの就職の面倒をみてあげなかったことが



いちばん心残りだ








なんて言われてようやく



現実を知ることになるのですが。













次回へつづきます。

























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前回にひきつづき、私の半生を振り返っております。




丁度、15歳のとき 世界初のフルCGアニメーション

「トイ・ストーリー」が上映され

びっくりして2度、見にいきました。




人物描写は固かったけど、

おもちゃキャラクターたちの、

生き生きした動きとデザイン!





スタジオジブリも「耳をすませば」で

一部、デジタル処理を始めた頃です。









ああ、これからはコンピューターでなんでも作れる時代になりそうだ。



素人でも映画が作れる時代がくるかも。



マンガも、コンピューターで描けてしまうかな・・・








宅録もやっていたから、余計にそう感じていたんですよね。



だって、売ってるCDみたいな音質の楽曲が、

機材さえあれば中学生でも録音できたのです。




↑ 記者さんに、音楽オタク少女扱いされてます。






マンガも少し描いていましたが、

男女の描き分けとか、小物のデッサンとか、

ストーリーの組み立て方で悩みはじめていたところでした。

描いても、内容が浅いの。



マンガ描いてることは、人に話してなかったし、

頭の中を見られるようで恥ずかしくて。

誰にも見せていなかったから上達するわけないですよね。















じゃあ、私は美大でコンピューターを学んで使えるようになろう!





とは思わなかったんです。









コンピューターさえあれば制作ができるようになるなら、

しばらく技術が発展していくのを見守りつつ、


自分は「手」を使った絵画力をつけたい、と思ったのです。





ディズニーの制作者も、相当絵画を訓練して

その能力をCGに落とし込んでいるはず。





一旦、マンガ家は保留とし、

大学の目標を絵画専攻に決めました。







ここで、

「日本画」と「油絵」について。



併設されている美術大学がありますが、

画材とルーツが異なるだけで

どちらもファインアートです。




墨汁と、
岩や宝石の原石を砕いた絵の具を

膠(にかわ)というコラーゲンを溶かして接着剤にし、

和紙に描きます。


明治維新以降、海外から入ってきた西洋画、に対して

中国がルーツの大和絵のことを日本画と名付けられました。



銀座のギャラリーや、

日展や創画展に通って、

マットな日本画の質感に惚れてしまいました。










けれど、日本画専攻のある学校が少ない。

さらに、募集人数が少なくてどこも高倍率。

東京芸大は40倍とかだったかな。






その美大の実技試験のために予備校があります。


石膏デッサンと、水彩画の静物画、人物画を


ほぼ1〜2日で描きあげる訓練をします。





授業料もお高いの。



1浪どころか、多浪生が予備校の昼間部に沢山通う、

不思議な世界でした。


















そんなファインアートに、

将来を見いだせない父親は猛反対!




何度も説得しましたが、父は聞き入れる気ナシ。



娘は、長年考えた末の進路を変える気ナシ。



お互いに壮絶な意地の張り合い。


なんと、自分で予備校の授業料を出すことにしてしまいました。




(すみません。20年経ったので時効にさせてください)

校則違反なのでばれないよう、ファミレスの厨房でアルバイトして

お金を貯めました。





都心への交通費と、一部画材代は

母がこっそり出してくれました。





だから、「モトをとるわ!」

という執念で、受験予備校は講習会くらいしか通えなかったけれど



そこそこは描けるようになったかな。









がんばったら認めてもらえると思っていたけれど



ついに、高3の夏に、



「浪人は認めない」
「東京・神奈川の美大以外はだめ」
「美大以外の大学も受験すること」



と、かなり苦しい条件を両親から出されました。







学校の中でもかなり絵が上手な子ばかりが通う

予備校、そこから

浪人生も含めて全員合格はないのです。

「現役合格」がどのくらい難しいことか。











ところが一転、
受験生の年の秋、 

美大から、私の高校へ
初めて指定校推薦枠がやってきたのです。


中学受験と、勉強をあきらめずにやっていたことが
ここで、効いてきました。

美大進学の役に立つとは。



絵画課題と、高校の成績表と面接で

入学枠の少ない日本画専攻に合格することができました。















受験にチャレンジしなかったことはすこしだけ後悔はあります。

どこ位のレベルだったのかなー?くらいですが。







このように親がチャレンジを制限すると、



「上辺がいい子ちゃん」は失敗を恐れて

手がだせなくなってしまうのです。





この点、わたし自身が親になった今、

忘れてはならないポイントです笑





親の気持ちも、わかっていたから。


ちょうど前年に、山一證券が破綻。

銀行の支店長も安泰ではなかったんだろうな。


まだ中学生の妹と弟が2人いましたし、

教育費がかかることは高校生でもよく知っていましたから。














しかも、

アルバイトと受験勉強を長く続けて

私は体を壊してしまったのです。


鎌倉駅のホームで

お腹からエイリアン出てきそうなくらい痛いよーって友達と笑ってたら

次第に笑えなくなり、

盲腸・即手術でした。

そのあとも倒れて再入院したりね。













そんななので、



受験をしていたら全滅だったかもしれないし、



違う大学なら就職先も違っただろうから、


今のわたしはいなかったと思います。








さて、

美大に通うことが目標になった高校時代を経て、



こどもの頃からの夢をかなえた大学生は


どんな学生生活を送るでしょう。













つづきはまた・・・





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前回の続きです。






うっかり「お嬢様」学校へ通った庶民のお話です。







公立の小学校時代は、
毎日のようにクラスの男子と喧嘩をしていました。

口げんか、
たまに殴り合いで目に大アザをつくることも。

精神的にまだ子どもなのに、
嫌味を言って攻撃してくる男子が許せず、
こちらも手加減なしで相手にしていました。

早く「大人にならないと」と思って育ってきたので
「生意気なガキンチョ男子」が許せなかったのです。



反対に、女子は敬遠していました。

裏でものすごいことを言ったりする娘がいて、
集団になったときの世界が恐ろしかった。

そういうのは、関わらないほうがいいのだと思っていました。


だから、女子校なんて 怖くて怖くてたまらなかったのです。






では、入った中高一貫校はどうだったか、というと



面白くてやさしい女の子たちと友達になれて、
すぐに学校が、楽しくなりました。


校則は細かかったけど、のんびりした校風。

だらしない男子生徒もいない笑
それを怒鳴る先生もいない笑


いい6年間を過ごすことができました。

悲しいこともたまにあったけれど、それ以上に
友達と、経験が私の人生の宝物になりました。

ほんとうに、良かったー 






自宅から、車ですぐ着く距離なのに、

のんびり走る、江ノ電で通学しました。


朝は5時半に起きないと遅刻です。











小学校の頃に、気づいたら背負っていた




「成績いい子がクラス委員やるのは当然でしょ」




「ピアノ習ってるなら、伴奏やってね」

みたいな、仕事の責任感のしんどさから



解き放たれたのも、楽しかった理由かもしれません。



付属小学校からの子は、お家柄の良いお嬢様で
優秀な子もたくさん!

ピアノが上手な子は、別格ですもの。






勉強以外の仕事が減って、
希望どおり、マンガも絵も、たくさん描けました。



小学3年生の弟と一緒に

個人の先生がやっている
絵画アトリエに通いはじめ



中1からようやく本格的に絵の勉強を開始。

こちらで6年間学びました。


デッサン、油絵、ステンドグラス 人物画
など。












自動で高校にも入れるので、部活は中学、高校合同。

美術部の部長もやりました。



授業も美術を選択して、
メンバー合作で文化祭の大きな看板をペンキで描きました。


サンダーバードのキャラクターとロケットをモチーフに。




















そうそう、
美術からは脱線しますが
大事な趣味の話。





キーボードを使った宅録も趣味でやっていて、




JPOPやバンドのスコアを元にデータを作って分析したり、
アレンジしたり


曲を作って、テープに歌を入れてました。


小室サウンドが大ヒットしていた頃ですね。
私は、それよりも
マッキーさんや、
小林プロデューサー寄りのほうが今でも好きです。





中一のときはちょっとだけエレキギターを触り、




中3のとき、キーボードマガジンという専門誌に

YAMAHAシンセサイザーのモニターになって載ったり、




高1のときは、ティーンズミュージックフェスティバル

(aikoさんと椎名林檎さんが出身のオーディション)

の神奈川県大会に出たこともあるの。

会場は、ランドマークタワーホールでした。

(これ出たおかげで、数学の試験で赤点とった笑)




高校の文化祭では

私の作ったリズムデータで、
ボーカル・ベース・ギターの子とライブもやりました。






学校の聖歌隊に選ばれて、2年間くらい
学校行事や朝礼放送で歌いました。
音楽の歌の試験中、先生に声楽部にスカウトされたことも。

宅録で、歌もマイクで入れてたから、そこそこ音程がよかったのかもしれません。






でも、歌声かわいくないから歌手は無理だし、作曲も才能ないなぁ、

趣味で続ければいいや。

やっぱり私、絵画の道をいこう

なんて確認しながら。






運動部の子達はキラキラ輝いて見えましたが、
わたしも地味〜に、文化部系を満喫していました。





あと、もう一つ、大好きだった趣味が
手芸です。

編み物やししゅう、フェルトでマスコットづくりを
得意な母と一緒にテレビをみながらするのが
とても楽しかった。

ちなみに母方の祖母は和裁士、
父方の祖母は編み物や洋裁が得意でした。

「夫人百科(いまのおしゃれ工房)」と
「暮しの手帖」を熟読していた孫でした。






当初の目標だった


美大進学のための予備校を
中3頃から見学してせっせと探し回り、

高1のときには、もう御茶ノ水とか、新宿とかの

某有名予備校の「日本画コース」の講習に通ってました。








しかし、予備校・大学受験を 父に猛反対されたのです。






あれ、マンガ家になりたかった話はどこに?


次回、ターニングポイントを書きます。



続きはまた・・・







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Tracking+ 



サイトに、かばん作家としての活動のプロフィールがあるのですが


それを始めるまでの背景について、


知らない人のほうが多いかもなぁ、と思い



10周年の記念に、改めて半生を振り返り、書くことにしました。











長くなりますので、何回かに分けます。

挿絵もすこし描きました。

気長にお楽しみくだされば嬉しいです。


















私は「美大に入る」と小学校の卒業文集で宣言するほど



絵が好きでした。







絵画教室など通っていていたわけではありません。



習い事はピアノを週に1回だけで

山あそび浜あそびをする、葉山の小学生でした。











父は銀行員、母は専業主婦、歳がすこし離れた妹と弟(年子)。



母は年子の子育てで忙しく、



私は4歳くらいには「おおきな」お姉ちゃんとして扱われて



あまり甘えてはいけないような気がして、我慢をしていました。



お手伝いはかなりイヤイヤやっていたけど、

漫画を読んでも、

勉強しないでテレビをみても、

口うるさくされるわけでもないので

気楽に暮らしていました。











さて、なぜ美大に行きたかったかというと



マンガ家になりたかったのです。



月刊りぼんが楽しみで、自分もマンガ家にあこがれるように。



デッサンの訓練ができれば、大人になったらマンガ家になれる!と信じていたのです。











5.6年生の時の担任の先生が 指導がとても上手で



思いがけず、自分が絵を描くことが好きだと気付かせてもらえました。







小学校では、たまに誰かからクラス委員に推薦されて

しぶしぶ委員をやっていた、ちょっといやな思い出もありますが・・・















当時 神奈川県には ア・テストという制度があり、



実質中学2年生から受験勉強が始まるという



なかなか過酷な時代だったのもあります。





高校受験をする時間がもったいない、本格的に絵も勉強したい、と考えたのです。









中学受験をする、と自分で決めてからは



週6日、バスに乗って逗子の塾に通い、



日曜日は模試を受ける生活になりました。











その合間にも、月刊りぼんは毎号欠かさず読み(笑)



Gペンと丸ペンと、インクに

ケント紙を買い、まんがもせっせと描いていました。











勉強のほうは、まぁまぁ、

最初は成績が下のほうのクラスから始まったので

テストの点や偏差値があがっていくと面白くなってきて。



塾の先生は厳しかったけど、



クラスメイトが面白かったので、通うのが大好きでした。











親は「中学受験する」と言われてびっくりしたそうです。



金銭的な負担は今も申し訳なく思いますが、

講習中はお弁当を2個作ってくれて(昼食と晩御飯)

通わせてくれました。











動機が「美大にいきたい」なので



志望校は都内の美大に進学実績がある横浜の共学校でした。







しかし、こちらの受験日程が2/4と遅め。



2月1日開始の中学受験は第一志望から数校受験していくものらしいのです。







そこで



塾の先生に強くすすめられ、また、


「一緒に受けようよ!」と塾のクラスの友達にすすめられて、



湘南にある女子校に、練習もかねて受験することにしました。







(最初すすめられたときは、女子ばっかりの世界を想像して

怖くて泣くほどいやだった笑)











当時の倍率で7倍くらい、偏差値も横浜の学校よりだいぶ高めだったと思います。



教室で「この席の縦の列で1人くらいしか入学できないんだなぁ」



とクールに考えながら受験。











なんと、友達は受からなかったのに、



私が受かってしまったのです。







その友達に、



「よかったね、彩、おめでとう!」と涙目で言われて



わたし、ここじゃない学校のほうが行きたいんだけどな、



とは言えませんでした。







親や、先生たちも大喜びしてくれて、



これも運命なのかなと思い、入学することにしました。







こうして、進学校・しかも女子だけ・小学校からの内部進学生のほうが



多い中学校へ、うっかり庶民が通うことになったのです。











中学校生活はどうだったか、



マンガ家の夢はどうなったのか、







は、次回をお楽しみに。









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